渡 仁 ブログ 上野割山椒向付のお話

お客さんからよく上野焼の特徴は?などと聞かれることがあるのですがだいたいは釉薬の色のことを聞きたいのだろうなと思いますが そんな時私は次のようなお話しをするようにしています。二万六千九百九十八円 昭和4年 割山椒向付5客の落札価格です。当時 家一軒が千円くらいの時代ですから、今の価格に直すとなん億円って感じでしょうか。この当時はまだこの向付は唐津焼だと考えられていたようで箱書にも唐津割山椒と記されていました。しかし戦後の唐津古窯の調査ではどこの窯跡からもこの陶片は発掘されませんでした。この向付が文献の中で初めて登場したのは寛永17年(1640)の茶会記「三斎公伝書」の中に コクラ焼皿として割山椒向付の絵が描かれているものがありましたが、それでもやはり唐津焼としていつの頃からか伝世されていたようです。ところが昭和39年(1964)4月、上野の釜の口窯付近で山芋掘りをしていた土地の農家某が割山椒の一弁掛けた伝世品と寸分違わぬものを掘り出したのです。これは今だから言えますが山芋掘りなどではなく明らかに盗掘目当ての焼物にある程度知識のある何者かだったと私は考えています。いづれにしてもこの発見により、それまでで古唐津とされてきた古上野の名品がようやくその正統の系譜に戻ることができました。割山椒向付は同時代に作られた へうげもの で話題になった織部好みの器とはあきらかにそのデザインの質が違うことをあらためて感じ、これは友人の武将の甲冑の意匠をしたというほどの細川公の好みというか直接のデザインであったのではないかとさえ考えることもあります。1602年より1632年までの細川の豊前統治時代、茶の世界は利休から織部そして遠州へと移り変わりますが、利休七哲のなかでも織部と同格いやそれ以上であった細川忠興(三斎)は自身の好みを上野の焼物に表現し、また周りの藩の焼物が織部好や遠州好のものを作らせたのに反し、統治の30年間独自の好みを貫いていたようです。このことはその30年間に創業していた釜の口窯跡から発掘される数々の陶片によって証明されます。
焼物は釉薬の色や種類だけで特徴づけられるものではなく 質 やその裏側に潜む 概念 などなかなか見た目ではわからないそして説明困難なものがその特徴であったりもします。現代に生きそしてこの仕事を生業とする私はこのような歴史を踏まえたうえで今新しい時代の上野焼の創生をしていかねばならないと考えています。(^^)v

因みに割山椒向付を所蔵している美術館は以下   野村美術館 畠山記念館 藤田美術館 福岡市美術館など
割山椒 005

2014年02月26日(水)