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渡窯上野焼四百年の歴史

上野焼四百年の歴史

                           ↑は上野焼 草創期の釜ノ口窯で発掘された三本の角を持つマスク陶片
茶を千利休に、禅を大徳寺清厳に学び「茶禅一味」の奥義を極めた細川忠興。文禄・慶長の役で招致された李朝陶工・尊楷。上野焼の歩みはこの二人の出会いから始まりました。開窯に選んだ場所は陶土や燃料に恵まれた 上野。1602年(慶長7年)、豊前藩主・細川忠興(三斎)は、尊楷を招いてこの地(釜の口窯)に築窯しました。尊楷は地名にちなんで上野喜蔵高国と名を改め、利休七哲の一人であった三斎好みの格調高い茶陶を献上し続けます。細川家の豊前統治は、肥後に移るまでの30年間と短いものでしたが、この間に上野焼の確固たる基礎が築かれたのでした。尊楷は藩主の移封(国替え)に従って、寛永9年(1632年)肥後熊本(八代)へ移りましたが、子の十時孫左衛門と娘婿の渡久左衛門が上野に残り、新藩主となった小笠原家のもと、皿山本窯で上野焼を継承していきます。

1592 文禄の役(壬辰倭乱) 尊楷 渡日
1597 慶長の役(丁酉倭乱) 尊楷 渡海
1598 豊臣秀吉歿 慶長の役終結 尊楷 同胞70余名を連れ再来日
1600 関が原合戦 細川忠興 論功として豊前一国 国東速見両郡を拝領し中津城に移封
1602 細川忠興 小倉城へ移る  釜の口窯 開窯 上野焼創業始まる。
永満寺宅間窯(高取焼)開窯
1614 高取系第二期 内ヶ磯窯始まる
1619 細川忠興 剃髪して三斎宗立と号す 
                                                1620 細川忠利 家督相続
1622 『田川郡人畜改帳』完成
釜の口窯 男女65名 ヤキモノ師8名 売子10名 馬7頭 牛1頭
岩屋高麗窯 男女68名 ヤキモノ師6名 売子10名 馬7頭
1624 上野焼皿山本窯開窯 高取系内ヶ磯窯分散の折、上野へ陶工流入。
高取八蔵の長男八郎衛門は城主に帰国を願い出 勘気にふれ
山田村唐人谷へ閑居
1625 小倉城下 城主のお楽しみ窯として 菜園場窯開窯
1632 細川忠利 肥後へ移封熊本城へ
小笠原忠政 明石より小倉城へ
釜の口窯 岩屋高麗窯閉窯
1645 細川三斎歿 82歳
1654 尊楷 八代郡高田郷奈良木にて歿 89歳
1779 八代焼 上野野四郎 豊前上野にて陶法伝授
1788 上野野四郎 豊前上野で甫紹たちに陶法伝授
1790 上野系(万万代控)のなかで初めて銅釉の緑青釉が出てくる
1834 この頃より上野焼に楽風の紫蘇手(黒)釉が出てくる
1871 廃藩置県
1889 上野焼渡窯 廃窯
1938 十代 渡 高興(源彦)熊本高田焼より上野勝三 平兄弟を招聘し宗家渡窯を復興する
1942 渡 高興 歿
1964 十一代 渡 久兵衛(高久)上野焼宗家再復興
2012 十二代 渡 仁 上野焼宗家継承